ラーメン屋(飲食店)経営

起業、成功者の考え

成功する人の思考

しかし成功する人も少なからずいる。飲食店の起業に関わらずに、偉業を成す人間には共通の思考があると私は勝手に思っている。

物事には目的があると思います。ここでは例えば大きな山があったとする。

目的はその山の頂上に到達することとしましょう。そこで馬鹿と凡人と天才の三人が頂上を目指そうとする。

馬鹿は何も考えずに一直線に頂上を突き進む、崖をよじ登り、川を通って、森を抜ける。そして眼前にある頂上だけを見据えてひたすらに歩き続ける。だから馬鹿には困難が降りかかる。そして死ぬか目的に辿り着くか二つに一つだ。

そしてもうひとり凡人はどうだろうか。おそらく大抵の人がこういう行動をとるだろう。

眼の前には道がない。到底登れそうにないから迂回して道を探す。運良く道が見つかってそこから登ろうとする。

そこで「真っ直ぐに突き進んだ馬鹿は間抜けだ。迂回したら道があるのに。今頃奴は大変な思いをしているだろう」とでも思うかもしれない。自分の選択が利口だと思うだろう。

しかし山道を進むと道が二手に分かれている。

あなたは右か左かどちらに行けばいいかわからない。そこで立ち止まって考えてみる。

『この場合はどっちに向かったほうがいいのか?』

左手には頂上が見える。右には川の音が聞こえる。さらに勉強をしてみる。本なんかを読んでこの場合は右に行くべきと書かれていたり、他人から左に行くべきだと忠告される。しかし確証がない。正解は誰も教えてくれない。あなたは道を引き返して別の道を進むか、一か八か左右どちらかに進んでみるかもしれない。そうしたらたまたま頂上に辿り着くかもしれない。いやそもそも両方頂上に通じていないのかもしれない。道を踏み外して真っ直ぐに頂上に向かうか、それは気が引ける。道の上のほうが安全だ。

あなたはなんとなく右に進む。だが進めば進むほど、山頂から離れていくのだ。覚悟が無いといけない。困難から逃げて目的の達成はない。

では天才とはどうするだろうか、(私は本当の天才に会ったことがないのでここでは論理的思考の人間としておく)

彼はスタート地点から立ち止まって思案し、それから馬鹿と同じく一直線に突き進む。しかしそれは何も考えていないからではない。色々と思案した結果そういう結論にたどり着いたのだ。天才は考えても仕方がないことを知っている。迂回したら道があるかもしれない。しかしそこが頂上に通じている確証はない。道は途中で途切れているかもしれない。しかし少なからずまっすぐ進めば頂上まで辿り着く。結局は自分の目を信じて真っ直ぐに目標に突き進むしかないということを論理で到達するのである。

だから馬鹿と天才の考えは一致する場合があるのだ。

ロバート・ブラウニングにこういう詩があります。私はその詩に大変感銘を受けたのです。一部だけ抜粋します。原文全てだと私が前述した意味とは少し違う意味になるからです。

 

道、その上に立つものは

これが道かと疑うばかりである。

されど野より挑むれば

麓より頂までその線明らかにして紛うべくもない!

 

なにか偉大な発明をする学者や実業家だってときには馬鹿になるのだ。他人に自分の考えを述べても理解されないかもしれない。間違いだと指摘されるかもしれない。前例がない、失敗すると言われるかもしれない。だが世間的な確証などなくても自分自身を盲目的に信じているのだ。そこに論理なんかはない。己に確信を持っているのだ。

好きなことを仕事にする。

巷では『好きなことも仕事にする』といったようなキャッチフレーズが溢れている。

正直に言ってそんなものは幻想だ。仕事を自らの信念や哲学の発露の場にするべきではない。つまり生活とはかけ離れていなければならない。そんなのは金持ちの道楽なのだ。

前置きとしてあなたは他人に私の料理を食べてもらいとか、こんな世界を知ってもらいたいとかなんとでも言うだろうか結局は金を稼いで自分の生活費に当てることを目的にしている。

自分が食うための仕事は誠実にならない。

織田信長の料理人の話を知っているだろうか?

織田信長
織田信長
最高の料理を持ってまえれ
料理人
料理人
かしこまりましたお殿様。これが日の本いちばんの料理でございます
織田信長
織田信長
不味いなこれ
料理人
料理人
ええ

なんで俺の料理が理解できないんだ。俺は料理を極めようとして最高の料理を提供したのに

もういいや適当に作ろう

織田信長
織田信長
美味いなこれ

こうして料理人は雇い主の要求を飲むだけになってしまう。もし自分の道を極めるとなればクビになるからだ。そうなれば給料が貰えない。そうなれば生活ができない。つまり己の生活が絡むと誠実な仕事ができない。

私が考えるに好きなことで仕事などできない。自分の興味関心によって仕事から受ける精神的・肉体的苦痛の大小が違うだけである。